LPit-Xのどうということもない記録

益体もないことのみが綴られる予定。

ワタシはアタマがヘタ

 ……このタイトル元ネタ解る人って今はどのくらい残ってるんだろう。

 
 そこに至るまでの経緯は省くが(無意味に長くなるだけだし)、ふと大学受験で予備校に行っていたときのことを思い出した。
 
 あまりに模試の結果から判断される成績が低くて、何処にも入れる大学がなかった時のことを。

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 自分が大学受験をしていた頃は、今とは違ってまだ「大学全入」となってしまうほどには受験者の世代人口が少なくはなかった(でも近いうちにそうなるとは言われてた) し、何より「私立文系に行くなら英語が出来ないと試験に通らない」という時代だった(受験科目に英語がない大学が私立のDランク(今風に言うなら)文系でもほぼ存在してない)ので、英語が全く出来ない自分には行ける大学が何処もない、という事になっていた。

 最初は文系から理系までほぼ全教科授業を受けてた(受講するのが大変だった……)けど、数学と理科(後述するように地学以外)は授業を受けるだけ無意味だという事が一日で解って一週間で諦める結果に。

 
 その後どれだけ勉強しても、自分は「国語(の現代文限定)と社会科全般の成績だけが高い」、いやもっと正確に言うなら

「国語(の現代文限定)と社会科全般以外の成績が壊滅的」

だったので、もうどうしようもなし。

 数学が全く出来ないので理系は「受験しようと考えるだけ無駄」だったのだが、なぜか地学の成績だけはよかった。勿論「大学受験」という観点で考える限り何の意味もないけど、地学の成績がよくても。

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 進路指導でチューター(あぁこの言い方でどこの予備校に通ってたのか一瞬で解るな)の人がもうどうしようもないくらい困ってたのは今でも忘れられない。
 あの
「(この生徒にどう接したらいいのか、どういう顔をして話をしたらいいのか解らない……誰か助けてくれ!)」
という表情は一生忘れないと思う。

 その時言われたことで今も覚えてるのが、
「……君は、受験科目が現代文と社会しかなければ東大文Iに余裕で入れるね……。理系の受験科目が地学だけなら京大に入れるよ……」
という一言。
 場を和ませなければならないと思ったのかどうにかなんとか励まさなければならないと思ったのかはたまた全てが嫌になった為なのかは今も判らないが(おそらく多分、最後)、自分はその時に
「はぁ。だったらいいんですけどねぇ(ンな訳ないじゃん、現実離れしたギャグはツマンないですよ先生。しかし自分の成績はそんなに酷いのか……)」
としみじみ思ったので、今も忘れず覚えてる。

 そのあと
「……現代文と社会だけ重点的に勉強してるの?」
「いえ全然。むしろ現代文と社会は勉強しなくても判るから勉強してません。全く」
「……他の教科は勉強していないの?」
「標準的な受験生の勉強量からは遥かに足りないと思いますが、勉強はしてます」
「……それでこれなんだ……」
「えぇ、これなんですよ」
というコントみたいな会話を交わしてしまったことも。

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 あと、自分は漢字覚えるのが壊滅的に苦手(とにかく書けない)だったので、
マークシート方式と記述方式とでテストの結果に差があまりにもありすぎる」
のでそれぞれの教科の担当講師が困っていたことも。

「ヤマカンで適当に回答しているのがたまたま正解なだけ」なのではない、という事がわかったらしい後は、
“もう自分に相談されてもどうにもならない”
という態度がどの講師の人も露骨だったので、凄く面白かった。

 面白がってる場合かよとは思ったが、あそこまで「(漢字が)読めるけど書けない」生徒というのもそうはいないだろうと自分でも思ってたので、悪い方向に気になったことは一度もなかった。

 先生も自分みたいなのの相手をしててさぞ大変だろうな……と思ってただけで。

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 結局
「もうどうにもならないことは自分でもわかっているので、自分のことは無視して結構です」
とそれ以上の進路相談もせず、実際に大学受験はしたけどやっぱり英語の問題がさっぱりどころか問題文に何が書かれてるのかがなんとな〜く解っただけだった、というので自分にとっての大学受験は終わったが、自分のようにあまりにも教科の得手不得手が極端な生徒、というのは当時珍しくもなかったんだろうか。それとも、前代未聞なレベルで珍しかっただろうか。

 それだけは10数年経った今でも知りたかったなと思う。

「自分みたいな人間って珍しいですか?」という質問はしたことがなかったから。

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 なお、当時と頭の中は全く変わっていない−どころか多分当時よりも劣化してる−ので、今も英語は全く出来ない(多分中学校1年生レベルの英語力もない)が、英語の文章を読むことには実生活上の苦労はない。だって、Web上でしか読まないんなら、翻訳する方法は幾らでもあるし。

 漢字が書けないことに関してはもう意識することすらない。
 漢字なんか、自分の名前がちゃんと書ければ十分である。

 ということと大学受験学力が欠片もなかったこととは全く関連性はない訳だが、あの一年間の苦労−はそういう意味では大してしていなかった気もする、だって事実上予備校入学一ヶ月目には投げてたから−はなんだったのか、と、時折思い出すと不思議な気分がする。


 こういうのを、「今はいい想い出」というんだろうか。