LPit-Xのどうということもない記録

益体もないことのみが綴られる予定。

国家異種混合戦

 ここに対しての話。

*好きなんだからしょーがない
「教育を受ける立場の俺が、いじめ根絶が不可能な理由を考えた。」
 http://d.hatena.ne.jp/TLW/20090625/1245927812

 稲作国家であっても「俺が! 俺が!」と集団の中から飛び抜ける事を
社会が抑圧しない、いやむしろ要求する、という文化の国もあったりするので
−大陸中国なんかは「集団から飛び抜けられる人」が歴史的には賞賛される−
稲作文化と直接的には関連性はない気がする。
 日本だって、江戸時代なんかは農村共同体の中で育ったにもかかわらず
「才能と野心はあるが協調性がない」人が結構頻繁に誕生して、そういう
人には「俺は江戸へ出て一旗挙げるぜ!」という生き方が一応あった訳
(この辺は江戸文化に詳しい人からツッコまれるかもしれない)−うまく
行ったかどうかは別問題-だから。戦国時代のように社会が流動化していると、
そういう人が大量に農村から発生してる訳だし。木下籐吉郎のような
究極例もいたわけで。

 ・

 日本社会が過重なまでに「集団での協調性」を求めるようになった、と
いうかそれを「身に付けていて当然の常識」と考えるようになったのは、
正に「日本人」という概念が誕生した明治以来なんじゃなかろうか。
「富国強兵」−「ぜいたくは敵だ」−「一億火の玉」−「国土復興」−
「高度経済成長」の流れにはどうしても
>できるだけ共通した価値観を共有し、人の意見には同調し、多数派の意見に
>同調しないような異端な人間を徹底的に排除する
ことが必要であったから、ということで、その大前提である
「”正しい”選択によって”正しい”方向性に一丸となって突き進めば必ず
 成功し勝利して皆が幸せになれる(筈」
という意識が崩れかけている昨今、そのうち「集団至上主義」は崩壊する
予感もする。

 ・

 ただ、それはそれで
「他人のことなど知らん。他人なんか自分の為に踏みつけて犠牲にするだけ
の存在に過ぎない。俺が、せいぜい俺と俺の家族と一族郎党が幸せになれば
あとはどうでもいい」
という価値観が蔓延して、ホッブスの言う「リヴァイアサン」な状態に
社会が陥って決定的に壊れる気もしないでもないが。

 ・

 ・・・でも、それで言うなら既に今の日本は「万人の万人による闘争」、
人間の自然状態に還っている気もしないでもない。

 なんせ、
「俺の金を他人への福祉に使うなんて許せねぇ!
 福祉の対象にならんと生きていけないような奴はさっさと野垂れ氏ね!」
とWebに書いて恥じない人間が普通にいて、
「俺の儲けた金は全部俺のものだ。そのせいで貧乏人が幾ら増えようが
 俺の知ったことではない。
 他人をどれだけ犠牲にしようが俺の懐が豊かになればそれでいい」
という人間がやっぱり普通にいるわけだし。

 今、世の中と社会を眺めていて、どうにも
「こんな風に万人が万人と闘争していてはみんな共倒れになるだけだ。
 ここは皆で手取りあい助け合って生き延びなくては」
という方向性には社会も人も向かいそうにない気がするあたり、まぁ
>いじめが根絶されることは不可能
だろうなぁ。

 ・

 尚、自分は好き嫌い・・・スキキライ・・・好きとか嫌いとか言い出した
のは誰なのかしら、という以前に「協調性」というものが全くないしちっとも
身に付かなかったので、現在の日本社会にはどこにも居場所がありまっしぇん。

 ・・・あったらよかったなー、と多分死ぬその日まで思う。
 いやまったく。