LPit-Xのどうということもない記録

益体もないことのみが綴られる予定。

ですとろいぜむおーる

 広橋 涼の声で・・・いやいいです読まなくても。

 *

 とりあえず、自分が「自分も公開ブログのアカウントを取るか・・・」と前々から思っていた事を遂に? 実行したのは、此処最近急に浮上した(水面下では前々から話が進んでいたようだが・・・)例の「陵辱ゲーム禁止」問題」があったからなのだけれど。

 某巨大掲示板(隠すこともない気もするけれども)の議論スレに書いているだけでは広がりがないなぁ、と思ってきたもので。

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 で、自分がこの問題に関する議論を(某巨大掲示板以外でも)読んでいて気になることの一つに、

「この手の創作を禁止したら、そういう性癖を持っている人間は欲望の発散場所がなくなってしまうので、実際の性犯罪が増えるぞ?」

というのがある。

「だから、現実に犯罪行為を実行してしまう事の安全装置として、この手の創作物は社会にとっても必要な存在だ」

と書かれていたりする訳だけれど。


 上の論が間違っているのか正しいのかどうかと言えば、正しいと思う。

 そういった「現実に行うと犯罪行為となる」ことを仮想体験できるものがあることは、現実に犯罪が行われる事の一定の歯止めには、
確かになっているだろう。
「自分はこれがあったおかげで犯罪者にならずに済んだ」
という人も、少なからずいることだろう。

 そういう点では、おそらく日本社会の56%くらい(此処に挙げた数字に根拠はない)には絶対に許容されないし必要とされていない「陵辱ゲーム」も、日本社会に貢献している、とは言える。

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 でも、それは裏返すまでもなく、

「このような反社会的かつ反倫理的な内容の創作物を好む人間は、やはり反社会的で反倫理的な人間だ(だから規制されねばならない)」

という規制派の主張を自ら認めているという事になる。

 もちろん、「反社会的な創作物を好むこと」と「反社会的な行動を実際に取ること」の間には大きな溝があり、実際にその溝を飛び超えてしまう人間はずっと少ない、事は確かなのだけれども、でもそれでいいんだろうか?

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 今回の「陵辱ゲーム規制」の話が出てきてから様々な場所で様々な書き込みを見て思っていることだが、どうも規制に反対する人達の中には、

「何故、ここまで自分達は恐れられるのか? 反社会的な内容のゲームをプレイすることが、そんなに怖がられるようなことなのか?」

という事に関して、根本的に誤解していると思える点がある。

 それは、

「反社会的な内容のゲームをプレイすること」
 そして、
「ゲームと同じように反社会的な行為を実際に現実世界で実行すること」
を、一般人は恐れ警戒して規制しようとするのだ、と思っているらしいことだ。

 それは違うだろう。

 そういった嗜好や趣向がない一般人(面倒なので何が一般人で何がそうでないのかという議論は省略)が恐れているのは、

「反社会的な行為」を頭に思い浮かべている人間が自分の身近に存在しているのかもしれないということ」

そのものだろう。

 乱暴に言うなら、「陵辱ゲーム規制派」は、
「陵辱ゲームユーザーの存在そのもの」
に恐怖しているのだ。
「陵辱ゲームをプレイした結果実際の犯罪行為に走ること」という「結果行為」に対してではなく。

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 勿論、他者の「内心」に対して恐怖して、それを規制して排除しろ、つまりは他者の「内面の自由」を管理しろ、というのは近代に確立された(筈)の「思想の自由」を侵害する行為で、近代自由原則を尊重すると憲法で認めている筈の国家では認められないことであるには違いない。

 でも、それで納得してくれるならそもそも「規制すべき」などという行為には相手側は出て来ないだろう。


 規制派は規制対象の“存在そのもの”に対して恐怖を抱いている以上、規制対象側からの対話も交渉も求めていないと思われる。
 ましてや、

「この手の創作を禁止したら、そういう性癖を持っている人間は
 欲望の発散場所がなくなってしまうので、実際の性犯罪が増えるぞ?」

などという発言は、恐怖感を倍増させて更なる排斥行為を呼ぶだけだろう。

 それが規制対象側も(というか、規制対象側こそが)認める事実なのだとしたら、

「あいつらは存在自体が危険なんだ。創作物とかのレベルじゃなくてあいつら自身を根絶やしにしないと駄目だ。いや根絶やしにするべきだ」

というところまで相手側が主張をエスカレートさせるまでは、ほんの数歩だろう。
 いや、もう既にそう言う主張をしている人が規制推進派の中にはいるんじゃないのか?
 大きな声として聞こえて来ないだけで。

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 現実にそういう世界になる日がすぐに来るのか? とか、そもそもそんな世界が来るのか? という事はさて置いて、

「この手の創作を禁止したら、そういう性癖を持っている人間は欲望の発散場所がなくなってしまうので、実際の性犯罪が増えるぞ?」

と“規制される側”が発言して認めてしまうことは、本質的にはそういう問題を孕んでいるのだと、規制反対派の人達はちゃんと認識しているんだろうか?

 それを認識することは、
「次の選挙では民主党自民党、どちらを選ぶべきか」
「いかにして政治家に自分達の主張をアピールしてゆくべきか?」
を議論するよりも優位性の低いことなんだろうか?


 自分は規制絶対反対派だが、某巨大掲示板の規制対策議論関連のスレを読んでいると、規制反対派が孕んでいる(自分にはそう見えるだけかもしれないが)ある種の能天気さ−言葉は悪いが−がとみに気になる。

売国の民主と亡国の自民、どちらに投票するべきか?」
が問題の焦点なのか? そうなのか? というか・・・。


 規制反対派と戦う前に、まず、各個人が

「反社会的、反倫理的な趣味趣向を持つ人間の存在そのものを否定してくる人間がいること」
「人間は純白で清浄な世界以外には生息する意味がないし、その世界に生息できない人間には生存の価値がない、と考える人間がいること」

それはどういうことなのか、を突き詰めて考えて見るべきなのでは、と思うのだが・・・。


*参考にさせていただいたダイアリー
 *NaokiTakahashiの日記
  http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090609/p3
 *革命的非モテ同盟
  http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20090525/1243185679